鈑金塗装からの業容拡大で直需8割を実現
一気通貫のサポートで地域のカーライフを支える
豪雪地帯として知られる新潟県南魚沼市に、ひときわ異彩を放つ工場がある。先代から事業を引き継いだ鈑金塗装に加え、整備、車検、車販、リースまでを手掛ける中沢車体だ。中澤直人社長は、旧来の職人気質から脱却し、顧客第一主義と従業員が働きやすい環境を両立させることで、人口減少が進む地域での工場の在り方を模索している。
【工場概要】社長:中澤 直人 住所:新潟県南魚沼市穴地235-1 設立:1987年 従業員数:5人
生き残りをかけた変革
新潟県南魚沼市に拠点を構える中沢車体は中澤直人社長の父親が一代で築き上げ、直需客をメインに鈑金塗装技術者として切り盛りしていたが、中澤社長が代表となった今では車検整備や車販などサービスを拡充、総合的に地域の車社会を支えている。ここまでの道のりには父親との対立、そして生き残りをかけた事業の再構築があった。
高校卒業後、東京の整備専門学校で2級整備士の資格を取得した中澤社長は、経験ゼロのまま実家の工場に戻った。そこは父母2人で切り盛りする、昔ながらの鈑金塗装工場。職人気質の父親は、組合などの横のつながりを好まず、独自の経営を貫いていた。「当時は鈑金塗装の経験もなく、よその工場を見学したり、専門誌で勉強した」と話す中澤社長。しかし戻って5年が過ぎ業界の在り様が分かってくると、このままの業態では将来はない、と父親とぶつかり合うようになった。
その対立は、塗装で扱う上塗り塗料の選定にまで及んだ。父親が固執する従来の2液型ウレタンに対し、中澤社長は作業の標準化と品質の安定を目指し1液型ベースコートシステムの導入を主張。「職人という概念を捨て、誰もが塗装できる時代にしなければならないと主張したが、なかなか聞き入れてもらえなかった」。そんな折、大きな転機が訪れる。15年前、父親が病に倒れてしまい中澤社長が経営の舵を握ることになった。「大変な状況だったが、今変わらないと生き残れない、チャンスだとも思った」。中澤社長は父親が築いた城を自らの手で解体し、再構築することを決意した。

顧客第一、地域の頼れる車屋へ
中澤社長が整備士資格を持つ強みを活かし、15年前に認証工場の資格を取得。これまで外注していた車検を内製化し、現在では年間120台以上をこなすまでに拡大。さらに、顧客からの「車を探してほしい」という声に応えるため、3年前にUSSに加盟。中古車の販売から、その後の整備、車体修理、そして抹消まで、一気通貫で対応できる体制を整えた。「客は何でもやってくれるから楽だと喜んでくれる」。
そのサービスはタイヤ預かりやカーリースにまで広がる。そうして顧客の利便性を追求した結果、入庫の8割が直需客で占められるようになった。納車時には鉄粉落としまで含めた洗車をサービスし、整備の際には交換した部品の写真を顧客に見せてていねいに説明する。こうした地道な信頼の積み重ねが、ディーラーですら予約待ちとなるオイル交換を「うちならすぐできますよ」と即答できる機動力と、顧客からの絶大な支持につながっている。





メリハリの利いた事業方針で
スタッフのモチベーションを維持
現在、フロントは夫人が担当し、工場で働くスタッフは中澤社長を含めて4人。全員が彼より年上だ。しかし、そこにやりにくさはない。「面接の時に、『年下だけど命令はする、その代わり残業はさせない。時間内で売り上げを上げて、工場の売り上げが上がればボーナスとして皆に返ってくる』と明言した」。
この方針の下、工場は定時退社で残業なしが基本。春・冬の繁忙期は集中して働き、閑散期には積極的に休みを取って体のメンテナンスを推奨。このメリハリの利いた働き方が従業員のモチベーションを支え、信頼を得ている。「今では定年を過ぎたらみんなでシルバー人材センターに行こうよと笑い合える仲だ」。
次世代と地域に工場を残す
2024年8月に法人化を果たし、新たなステージに進んだ同社。中澤社長が見据えるのは、さらにその先だ。「法人化したのは後継者を育てたいから。だが自分の子じゃなくて、独立したいという気概のある若者をみんなで育てて、この会社を譲りたいと考えている」。
60歳になったら引退し、意欲ある人間に会社を託して、自分は暖かい土地へ移住する。それが中澤社長の描く夢だ。「この地域に、車のことなら何でも対応できる工場を残したい。独立するには莫大な資金がかかるけど、ここなら土台がある。やりたい者が、責任を持ってやっていけばいい」。
人口減少と高齢化が進み、近隣の工場が次々と廃業していく厳しい現実がある。その中で「一人勝ちしてはけない。お互いが利益を出さないと」と話す中澤氏は、自社が生き残るだけでなく業界と地域の未来を見据える。 (武井宏樹)